Artistic Hawaii  アーティスティック・ハワイ

愛するハワイをイラストにしてみました。完全オリジナルです。

Category: ちょっと言わせて!

ぶらっと旅★越後湯沢はデンジャラスな香り





新潟出張の帰りに骨休めで訪れた越後湯沢駅。

構内に温泉があるというワンダフルな駅だということは前回ご報告しましたが、

もう一つの目玉は(勝手に目玉だと思ってますが・・・)

それはそれはデンジャラスなアダルト・オンリーのむふふなお店!

それがこれ!

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利き酒屋さん!


店内に入ると一面の壁全体に日本酒のサーバーがずら~っと並んでいます。

(いやほんと、むこうが霞んで見えないくらい並んでますね!)

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そう、ここは日本酒の利き酒が出来る店。

カウンターで500円を払うとコインを5枚とおちょこを渡されます。

1枚のコインを壁に並んだ日本酒のサーバーに入れると

おちょこ一杯分の日本酒が注がれる、というわけです。

500円で5種類の日本酒が少しずつ楽しめるという画期的な、

そして少しデンジャラスなシステムです(笑)

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まずは昨夜の宴席でもさんざん飲ませてもらった八海山

コインを入れてボタンをポチッとするとおちょこにチョロチョロと

銘酒・八海山が注がれます。

かなり有名なお酒ですのでご存知の方も多いと思いますが、

とってもおいしい! 口の中に残る芳醇な味わいがいいなあ、と思いました。

この店では№5の人気だそうです。

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さあ、どんどんいってみよー!!

あ、デンジャラスな罠に足をからめ取られたのが自分でも判りました(笑)

「今年もやってきた!」「限定販売!」ってのに惹かれて飲んだのが

蔵開き 一号ですって。

う~ん、フルーティ!!

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さあ、次いってみよー!!

あ、デンジャラスな罠に腰までずっぽりはまった事を自覚しました(笑)

天地人

やっぱり今年はこれでしょう!人気№6の実力ですね!

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さあ!どんどんいくべー!!

でたー!!越乃寒梅!!


新潟といえばこれ!って言うくらいの超有名な日本酒ですね!

んんん~!やっぱり美味い!

水のようにスッキリして嫌味がこれっぽっちも無くって

素晴らしい!いちばんこれが好きかも!!

№3ですか!もっと上でもいいんじゃないの~!!

さあ、どんどんいっちゃいましょー!!



あああ、デンジャラスな罠に頭まで埋まっちゃった自分がここにいます(笑)



そしてこの店で№1の人気だったのが、あの久保田!

残念ながら画像は無いのですが、最後の1枚をこの久保田に使いました。

ああ、さすがに美味いっ!!




さすがは酒どころ新潟!!

気弱なわたくしは

この恐ろしい、デンジャラスな罠から逃げる事はできなかったのでした(嗚呼)

(ただ好きなだけじゃん!)

酔っ払ったワタクシは不覚にもこの通り。

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なんてね~!(笑)

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ここのお店に入るとこんなおもしろい人形が床に寝転がってます。

ああ、どこかで見た事のある、誰かさんのような・・・(笑)


越後湯沢駅にある、越後のお酒ミュージアム ぽんしゅ館のなかにあるお店でした。




こんなシステムが福岡でもあったらいいのにな~!

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ぶらっと旅★雪の越後湯沢 その1





2月の21日、新潟までの出張帰りに

上越新幹線 越後湯沢駅に寄ってみました。


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2月というのに寒くないお天気は新潟も同じでしたが

さすがに山の中の越後湯沢駅周辺は深く深く雪に埋もれていました。


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近くにスキー場もあるので、これくらいの雪は当然でしょうね。

駅前を少し歩いただけでもこのように

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真っ白な布団を掛けられたかのように、ふか~い雪に覆われていました。

駐車場の車も車種がわからないくらいになってました。



雪に覆われた街並みに心躍るはずの私ですが、

いつもなら雪の中を走り回っているはずですが、

なんだか少しブルーな気持ちになってました。

だって・・・

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道がぐちゃぐちゃなんですもん(涙)

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道路に雪が積もらないように水(お湯?)をこのようにして撒いてるんですよね。

おかげでびしゃびしゃ(涙)

スーツに革靴でしたので、このビショビショ道路には辟易しました。

長靴でないと道路を歩けない、そんな状態でした。

ですので雪の越後湯沢を楽しむのは散歩では無理だと思い、駅に戻る事にしました。




ここ、JR越後湯沢駅には構内に温泉があります。

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越後のお酒ミュージアム、ぽんしゅ館。

乗り継ぎの余った時間に温泉に入るって離れ業が出来るんですよ~。

そういえば昨日はビジネスホテル泊りだったので温泉に入るのもいいなあ、ということで

のれんをくぐってみました。

800円だったかな?小さいタオルとバスタオルを渡され浴槽に向かいました。



お酒の成分が入っているそうで、浴槽には「飲まないでください」と

張り紙が貼ってました。

誰が飲むかいっ!!(;一_一)



ポッカポッカにあったまったあと、お土産を買うために店内を散策。

実はここには、ある おもしろいお店があるのです。

身も心もとろけさす、魅惑のお店があるのです!

心ときめくアダルト・オンリーの大人のお店。



はたして、そのお店とは・・・!

次回乞うご期待!!

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田母神論文を検証せよ!





更迭された田母神元航空幕僚長の論文「日本は侵略国家であったか」を全文読んでみました。

内容を簡単にいうと

先の太平洋戦争(大東亜戦争)に関する論文で、

 「侵略戦争というのは濡れ衣」

 「日本はアジアを列強の植民地から解放し、またインフラ整備などに尽力した」

 「日米戦争では日本は罠にはめられた」

など、一般の歴史認識とは大きく違う内容です。



政府見解と大きな乖離がある、という理由でさっそく政府自民党内からも非難の声があがりました。

もちろん政権交代を目論む民主党をはじめ野党各党もここぞとばかし喰いついて来ました。

新聞やTVなどのマスコミもこぞって非難を始めました。

日本が引き起こした戦争に対して反省をしていない、と。

そうなると当然一般の国民も

「こりゃとんでもない事を発表するヤツがいたもんだ!」

「それも自衛隊のトップだった人だって!」

「こんなことだからアジア各国に信頼してもらえないんだ」

などと、思う人も多いと思います。

失礼ながら、これを読んでいるあなたも、きっとそうだと思います。



でもそれは自然な成り行きです。

だって、世論がそうなんですもん。

マスコミによる世論誘導がその方向にしか向かっていませんから。



太平洋戦争の歴史認識に関してこのような意見を政府の要人が発言して物議をかもしたり

罷免されるという事態は数え切れないくらい起こっています。



しかし、みなさん、不思議に思いません?

歴史の真実はどうなんだろうか?、と




そもそもこういう発言は、なにも根拠の無い戯れ言(ざれごと)なのでしょうか。

右翼かぶれのたわごとなのでしょうか。

マスコミが言うから、政治家が言うからこの歴史認識は間違っている、と

あなたは判断しているはずです。



しかし、本当に間違っているのでしょうか!?


本当にマスコミは、政治家は、歴史を知っているのでしょうか?


私はそのことに大きな疑問を持っています。



昨今アメリカやロシアで戦時中の機密文書が少しずつ公開されていることをご存知でしょうか。

そのなかでもショッキングなのは「ヴェノナ文書」と呼ばれる、アメリカ政府に潜入していた

旧ソ連共産党のスパイと、その本部であるコミンテルンとの暗号交信を解読したものです。

なんと、開戦当時のルーズベルト政権には300人もの共産党のエージェントが

紛れ込んでいたそうです。

日本に戦争を決意させたといわれる最後通牒、「ハル・ノート」を書いたハリー・ホワイトという

人物はまさにこのスパイで、財務次官にまでなった人でした。

スターリン率いる旧ソ連共産党の考えは革命という混乱状態をつくり、

そこから共産主義という新しい体制をつくることでした。

そのために各国で革命という形で戦争を起こしています。

戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争などもそうですが、

この日米開戦も実は共産主義が陰で手を引いていたものなのです。



一方、イギリスの首相チャーチルはヨーロッパ戦でドイツに傾きかけた戦況を

好転させるためにアメリカの参戦が必要でした。

しかしヨーロッパ戦線には不参加の公約を掲げて当選した米大統領ルーズベルト

自分から参戦するわけにはいきません。

そこで考えられたのは日本に先に手を出させて、戦争に参加する道でした。



日本は石油や鉄をはじめいろんな物資を海外からの輸入に頼っていたのは今も昔も変わりませんが

その多くのものをアメリカは断ち切りました。

アメリカをはじめとする、イギリス、中国、オランダのABCD包囲網によって

日本はまさに命脈を断たれたのでした。



これにより日本は真珠湾攻撃へと突き進んでいきます。

もちろんアメリカは簡単に勝てる相手ではありません。

最後の最後まで日本は粘り強く、妥協に妥協を重ね、交渉を続けましたが、

アメリカ側は交渉に応じるつもりはありませんでした。

そして「石油は血の一滴」といわれていた石油が遂に全面禁輸とされてしまいます。

石油が無くなれば軍艦も飛行機もただの鉄の塊り。

石油の備蓄が底をつく日から逆算すると、11月中に交渉が成り立たないと

もう戦争に突入するしかない、その時期を失うとせっかくの軍事力という

カードが意味をなさなくなってしまいます。

そして最後の望みをかけて交渉に臨んだ日本の前にアメリカが用意したのは

前述したように、米国政府中枢部に潜入していたソ連のスパイが作成した

「ハル・ノート」と呼ばれる、日本にとっては受け入れられるわけのない条件を

織り込んだ、まさに最後通牒とも言えるものでした。



こうなると日本に残っているのは戦争という道しかありませんでした。

座して滅ぶより、死を覚悟して戦いを選ぶ。

それはある意味、サムライの決意だったかもしれません。




アメリカの参戦を望んだイギリスと、それに答えたかったアメリカと、

混乱の中にこそ共産主義の発芽があると信じていたソ連の思いが

奇妙な形で結実した恐ろしい木の実だった、といえるかもしれません。

その木の実を拾うしか生き延びる手がなかったのが日本だったと言えるのかもしれません。




こうやって日本は、まさに自存自衛のために戦争という最後の手段に

踏み込んでしまったわけです。

ルーズベルトは「私は宣戦はしない。私は戦争をつくるのだ」といったそうですが

まさにその通りになったのでした。



しかしこの「自存自衛の戦争」という認識自体も今の日本ではタブーなのです。

戦後の東京裁判で戦争犯罪国家の烙印を押されたと同時にこの認識も奪われたのでした。

このタブーに踏み込んで更迭された政治家も多いはずです。

しかし、実はこの東京裁判を仕切って日本の自存自衛の戦争を認めなかった

マッカーサー元帥が皮肉にも後日それを認めることになったことを日本人の多くは

知りません。

1951年、合衆国上院軍事外交合同委員会で

「日本は物資の禁輸により追い詰められた。

彼らが戦争に飛び込んでいったのは大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」

と自ら証言しているのです。

つまり、マッカーサーは自ら築き上げた


「日本は侵略国家」だという


東京裁判の大前提さえも


自ら否定してしまったことになるのです。





そして日本と中国の戦争も実は共産党の暗躍があったという事実が最近わかってきています。

当時結成されたばかりの中国共産党蒋介石の国民党と日本軍を戦わせ、疲弊した国民党を

戦後中国から追い出すことに成功し、政権を樹立しました。

共産党のために日本は戦わされた、といってもいいかもしれません。

これは戦後日本の社会党訪問団が毛沢東に面会した時

「戦時中中国には多大な迷惑を掛けました」と頭を下げたところ

毛沢東は「いやいや、日本軍はよく戦ってくれた!」と褒めたという事実が物語っています。



このように見ると、歴史の真実というのはいったいなんなのか、との思いが満ちてきます。

日本ばかりが悪かったのか、それとも事実は違うのか・・・。



歴史は史料によって語られなければなりません。

新しい史料によって書き換えが必要なのですが、

なぜかこの昭和史だけは書き換えが出来ないのです。

まるで呪縛に絡みとられているかのように・・・。



今度国会で田母神元航空幕僚長がこの件で証人喚問されます。

その時きっと民主党をはじめ野党の政治家は頭ごなしに彼の論文を否定するでしょう。

与党も彼を擁護する事は無いかもしれません。



しかし新しい事実は史料として発掘されているのです。


私は主張したい、まず新しい史料を検証しろ!と


それを検証する事なしに彼の論文を否定する事は出来ない筈だと!



そもそも政治家に歴史を語る資格があるのかも疑問ですが(笑)

特に旧ソ連の共産主義に源流をもつ日本共産党には絶対にありません(笑)



これからもこのような一級史料である機密文書が続々と公開されてくるでしょう。

機密文書には50年経過すると公表されるというルールがあるといわれています。

そのなかでも超重要文書は70年を経ないと公表されないというルールもあるそうです。

ということは、これから5年~10年の間に歴史を塗り替えなければならないほどの

重要な文書が公開されることも考えられます。

情報公開が進み、メガトン級の情報爆弾が我々の頭上で炸裂する日が来るかもしれません。







現在の政府見解の根拠になっている村山談話にしても、もともと社会党の党首であり

ひょんなことから転がり込んできた首相の座に座ってしまった村山首相が、

ここぞとばかしに披露した自虐史観でしかありません。

彼は東京裁判で刷り込まれた歴史認識をそのまま信じ込んでいただけなのです。

東京裁判の立役者、マッカーサーが自ら否定していた事実も知らずに・・・。

もっともそれまで違憲として否定してきた自衛隊も首相になったとたん

一夜にして合憲と認めた、そんないいかげんな首相だったんです、この人は(笑)

ちなみに政権を離れたらまた違憲と言い出す始末でしたよね(嗚呼)




仮に、新しい史料により従来の政府見解は修正されました、という事態になっても

決して恥ではありません。

事実は事実として受け入れるだけ、それだけなのです。


歴史に主義・主張を挟み込むと、それは単なるプロパガンダになります。

そう、あの中国共産党と同じになってしまいます。

今回の田母神論文も何も検証されずに黙殺されるのであれば

言論封殺でしかありません。

そんなことが現代の日本で行われていいわけはありません。

あれだけ声高に言論の自由、報道の自由を訴えるマスコミや政治家が

平気でやっていること、

それが言論封殺だった、なんて笑える話ではありません。







一度徹底的に歴史を再検証してみなければならない、


そんな時期に来ているのです。




<shimtyの独り言>


な・・長かった・・・。

だれも最後まで読んでくれないだろうな、と思いつつ・・・。

shimty論文(笑)に最後までお付き合いしてくださった方がおられましたら、

心から感謝を申し上げます。

でもこれだけは言いたかったんだよー!

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チベットの向こうに日本が透けて見える




昨日、チベットの最高指導者であり、ノーベル平和賞受賞者でもある

ダライ・ラマ14世の講演を聞きに北九州に行って来ました。

 その含蓄と慈愛に満ちた説法は、広い会場を埋め尽くした

我々聴衆の心にしんしんと降り積もり、

法王の慈しみの心に満ちたお人柄に改めて尊敬と感謝の念を感じずにはおれませんでした。

 そんな愛に満ちた法王も中国政府に言わせると、分裂主義者というレッテルを貼られた悪人です。

法王は非暴力の立場から、中国はチベットの一部という事を認めており、

そのかわり宗教の自由、文化の保護など高度な自治を認めてほしいと

いっているだけにもかかわらず、です。



 振り返ってみると、第二次世界大戦終結後間もなくの1949年、

毛沢東率いる中国共産党人民解放軍は当時独立国家であったチベットに侵攻し、占領を開始しました。

そして10年後にはダライ・ラマ法王はインドに逃れ、亡命政府を樹立しました。
 
その後も中国の侵略は着々と進み、信仰の自由は奪われ、

教育・言語などの民族としてのアイデンティティが抑圧されていきます。

また、漢民族が大挙して移住し、チベット人と結婚させることで

チベット人の血を薄める政策が強力に推進されています。

これは静かな民族浄化作戦です。



 これは世界の国々から見ても明白な事実であり、どう見ても悪いのは中国政府ですよね。



 それを臆面も無く、ダライ・ラマ14世は中国からの独立を企む謀反者との強弁を繰り返します。

つまり中国は自分の都合に良いように歴史も真実も捻じ曲げる国なのです。

 そのことはよーく頭に入れておく必要があります。

自分達の主張にそぐわない認識には異を唱える。どこかでも見たシチュエーションです。

 そう、日本の歴史教科書に対する干渉がまさにそれ、です。

 戦時中日本は中国を一方的に侵略し、筆舌に尽くしがたい暴力を振るい、

中国人民に甚大なる被害を与えた悪の国家だったという認識に異を唱えたり、

少しでも曖昧な表現にするとやれ反省していないとか歴史認識が間違っているなどと

因縁を付けてくるのが中国政府のやり方です。

 そしてそれに盲従するのが日本政府であり、マスコミ各社です。



チベットの向こうに日本が透けて見える、その所以です。



先日、田母神航空幕僚長が先の太平洋戦争(大東亜戦争)に関する論文の責任を取るという形で

更迭されました。

 その問題にも深く関係があることなので、次回踏み込んでみたいと思います。

<shimtyの独り言>


久しぶりの更新になったのに、ハードな内容で申し訳ありません(笑)

今日は新しいアメリカ大統領が誕生する日ですね。

さあ、マケイン候補は勝てるのでしょうか。

ブラッドリー効果を密かに期待しているshimtyです。

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日本人が知らない、原爆の真実



今日は63年前広島に続いて長崎に原爆が落とされた日です。

いつもの能天気なハワイ記事から一変して、すこしシリアスな記事を書こうと思います。






今から63年前の1945年8月6日午前8時15分、広島にウラニウム型の新型爆弾が投下され

一瞬にして14万人もの尊い命が奪われました。

人類史上初めての、原子爆弾が市街地の上で炸裂した瞬間です。

そして同じ月の9日午前11時30分、今度は長崎にプルトニウム型の原爆が投下されました。

2個の殺戮兵器が20万人以上もの何の罪も無い一般人の命を紅蓮の炎で焼き尽くしたのです。



なぜアメリカは原爆を2個も日本に投下したのでしょうか。

なぜ日本は原爆という恐ろしいソドムの業火を受けなければならなかったのでしょうか。



原爆には2つの伝説があります。

一つは戦争を早く終らせるために使われた、ということ。

戦争が長引けば100万人のアメリカ兵の命が危険にさらされる可能性がある、これ以上の犠牲を

出さないために投下は必要だった、ということです。

そしてもう一つは日本側が連合軍が通達した降伏通牒であるポツダム宣言を無視し続けたため

堪忍袋の緒が切れたアメリカが遂に使わざるを得なくなった、という伝説です。

また、日本は戦争という悪い事をしたのだから厳罰を与えられたのだ、という考えを持っている

人もいると思います。



果たして、そうなのでしょうか?

本当に原爆の投下は必要だったのでしょうか。

その辺を考察してみたいと思います。



原爆の投下に踏み切ったのは第33代アメリカ合衆国大統領トルーマンでしたが、開発は前任の

ルーズベルトの時代から行われていました。

ルーズベルトは1945年2月、ヤルタ会議(イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンと

ドイツの割譲やポーランド問題を話し合ったと同時に、ソ連へ対日戦争参加を要請した。しかし

すでに日本とソ連は不可侵条約を締結していたにもかかわらずソ連は一方的に破棄することを密約した)

直後、急死します。

その後を受けたトルーマンは開発中の原爆の存在を知り、この超兵器の殺傷能力とそれがもたらす政治的

パワーを見抜きます。

コレだけの強力な武器を手に入れたことの意味をトルーマンは理解したのです。

それは歴代大統領に比べ、家系も学歴も低い彼にとっては自分を見下している列強の指導者や部下を

見返すチャンスと思ったに違いありません。

合衆国の頂点に立った彼が思わず手に入れた超兵器、彼は右腕である国務長官のバーンズと

これをどのような形で世界にデビューさせるのがいいのか、計画を練ります。



一方、日本は度重なる敗戦にすっかり疲弊してしまい、戦争の終結を模索していました。

日本が恐れていたのはむやみに降伏すると無条件降伏という条件を飲まされ、天皇制を解体させられる

ことでした。それは1次大戦後のドイツが無条件降伏をした時、王政が崩壊したという生々しい記憶が

、当時の日本政府から降伏という選択肢を奪っていたのでした。

そう、当時の日本政府の最大関心事は天皇制という国体の護持でした。

そのために必要なのは連合国側に一矢を報いる事、もう一度敵国に甚大なる被害を与え、有利な条件で

休戦に持ち込むことが必須と考えていました。

しかしながら特攻などの非人間的な攻撃を展開するも戦局は好転する事はありませんでした。



そんな時に日本が考えていたのは、不可侵条約を締結していたソ連に和平の仲介を依頼する事でした。

しかし、実はソ連は先のヤルタ会議で米英とともに対日戦争に参加することを決めていたのですから

相手を見誤っていたのもいいところでした。

なんとも愚かなり、日本。



実はアメリカもこの日本の動きを手に取るように察知していました。

なんと、開戦当初から日本の暗号はアメリカに筒抜けだったそうです。

そんなアメリカにも知日派といわれる人もおり、極東問題局長グルーもその1人でした。

彼は日本が天皇制の護持を保証されれば休戦に応じる事を知っていました。

日本に天皇制の存続を保証した降伏勧告をすればこの戦争は終結することがわかっていたのです。

しかし彼の意見は採用される事無く、天皇の処遇にいっさい触れない状態でポツダム宣言が発せられたの

でした。



アメリカ内にも日本の状態をわかっている人がいたのに、天皇制の護持という条件を付ければ日本は

すぐさま降伏するということが判っていたにもかかわらず、なぜポツダム宣言はそのことに一切触れず

発せられたのでしょうか。



そこにこそトルーマンの意思が働いていたのでした。

トルーマンの非情な計画が隠されていたのでした。

まだ日本を降伏させるわけにはいかない。

あの、原爆の威力を確認し、世界に知らしめるまでは降伏させるわけにはいかない・・・・。

原爆を投下するまで、日本を降伏させるわけにはいかない、との思いがあるのでした。

しかもポツダム宣言には連合国として連ねた国名の中からソ連をわざと削除しています。

日本が和平の頼みの綱としていたソ連の名前が宣言書に挙がっていれば、望みを断ち切られた日本は

すぐにでも降伏することが判っていたからでした。



周到な準備をすすめるトルーマン大統領はソ連のスターリンの下へ特使を派遣します。

かれの目的はソ連の日本攻撃の日程を聞き出すことでした。

ソ連から得たスケジュールでは8月8日には全ての準備が整うとの事でした。

トルーマンはもちろん知っています。ソ連が参戦したならば日本はすぐさま降伏してしまう状況に

あることを。

となると原爆の投下は8月8日以前でないといけません。



そして全ての準備が整った日、それが8月6日なのでした。



1945年8月6日、ウラニウム型原爆「リトル・ボーイ」を積んだB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は

静かに広島上空に迫りました。

そして格納庫から、その悪魔は落とされたのです。

何も知らない普通の人々が、普通の日々の生活を営んでいる大都市の上に・・・・。



8月9日朝、ソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄し、満州へ怒涛の進撃を開始します。

スターリンにとっては、原爆により日本が降伏する前に宣戦布告しておかなければなりません。

戦後の領土の分割に有利な立場になっておかなければなりませんから、どうしても連合国の一員に

名を連ねる必要があったからです。先のポツダム宣言にはソ連のソの字も出していなかったのにも

かかわらず・・・。



日本にとってはまさに寝耳に水でした。

そして同じ8月9日に長崎でプルトニウム型原爆が炸裂します。

2つの原爆と、和平の仲介役として期待していた中立国だったはずのソ連の突然の参戦により

全ての望みを絶たれた日本は遂にポツダム宣言を受け入れ、休戦をすることに同意しました。



なお、日本は無条件降伏をした、といわれますがそれは正しくありません。

ポツダム宣言には連合国から国際法に沿ったいろんな条件が盛り込まれていましたが

それに批准する形での降伏ですから、無条件降伏のわけがないのです。

逆に降伏後にその条件をことごとく破ったのは連合国側だったのですから、国際法を無視したのは

むしろ連合国側なのですが・・・。





このように、原爆が太平洋戦争を終結へと向かわせたことは事実ではあります。

しかし、原爆が無くたって戦争は終わらせる事ができたのです。



トルーマン大統領は今後対峙することになるだろうソ連への威嚇のために

戦後のアメリカの絶対的地位を保つために原爆使用を決定しました。



しかし戦後まもなく原爆の開発技術はソ連に筒抜けになり、ソ連も多数の原爆を保有する事になります。

冷戦時代の始まりです。

また核兵器は拡散を続け、中国や北朝鮮などのやっかいな国々に広がり続け現在に至ります。

核兵器を持つということは、カードの「切り札」、まさに「スペードのエース」を持つということ

に他ならないことに気づいた各国は我先に開発を進めた結果でした。



トルーマンが行った世紀の人体実験、原爆は

最悪のホロコーストとして歴史に刻まなければなりません。


そして核の拡散を導き出したことを歴史に刻まなければなりません。

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